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史跡箕輪城跡保存整備
所在地 群馬県高崎市 業務内容 計画・設計・監理 年度 2011年〜
近世初頭の山城整備・櫓門の復元

郭馬出全景・二の丸から

再発掘された郭馬出西虎口門の遺構
箕輪城は、群馬県高崎市箕郷町にあり、西暦1500年頃に長野氏が築城し、長野業政(なりまさ)が武田信玄の侵攻を何度も防いだ城として名高く、永禄9年(1566)の落城後も、武田氏、織田氏、北条氏の後、徳川の有力家臣、井伊氏が城主になり、戦国時代における西上野の中核的な城でありました。
箕輪城跡は、昭和62年に国史跡に指定され、その後実施された発掘調査で、大規模な堀や山城には珍しい石垣、また城門の遺構が極めて良好な状態で残ることが判りました。
城跡には何度かの造り替えがありましたが、特に16世紀末頃、最終時期の井伊氏時代の遺構が良好に残されていました。保存整備は、この井伊氏時代の姿を目標として実施しています。

現在も高崎市教育委員会により調査や整備が継続していますが、私たちは平成23年に実施されたプロポーザルコンペを経て、整備の設計・監理に参加しています。

復元された郭馬出西虎口門

郭馬出西虎口門・正面
平成28年度に整備が完成した郭馬出は、本丸・二の丸と大堀切を挟んで位置する防御の要にあたります。周囲に堀を巡らせ、土塁を築き、西虎口には櫓門があります。
この郭馬出西虎口門は、本丸などのある箕輪城の主体部では最大規模の門跡で、礎石の配置や中近世の城門の建築事例から2階建ての櫓門と想定しました。
桁行3間9寸(5.73m)、梁間1間5尺5寸(3.49m)、二階は正面側が1尺5寸(0.45m)張り出します。総高は約6.5mあります。
一階正面側は板壁、他は土壁、2階正面に大扉と脇戸を持ち、二階には格子窓、また正面側の張り出した床には石落しを設けました。また、屋根は長い割り板を重ねた割り板葺きとしました。
これらの構造は、遺構(礎石の配置、雨落など)から考えられることの他、近世初頭の山城という時代背景から、近世城門の特徴を持ちつつ、屋根材など中世的なあり方を留めるという考え方で復元しました。

郭馬出西虎口門・背面

二階 格子窓と石落し
整備事業は、高崎市教育委員会をはじめ関係各課のご尽力、文化庁・群馬県教育委員会のご指導により進められています。
また、工事に参加した文化財を扱う石工、伝統木工の大工や建具職、大径のケヤキを揃えた木材業者、土壁の伝統技術を持つ壁職、類のない長い割り板屋根を葺いた屋根職、伝統金物をつくる鍛冶職、専門職を指揮した建設会社の監督など、多くの職人の誇りとなることを願っております。

石垣復元

完成した石垣
二の丸と郭馬出間の大堀切を渡る土橋下には、発掘調査で石垣が発見されました。
この遺構は地下に埋め戻して保存し、その真上に整備の石垣を復元しました。遺構と同様な玉石を用いて、層のつくりかたや面の表情など、遺構の写真や図面を見つつ丹念に積みました。

雨落ち溝の復元
郭馬出西虎口門の遺構は、再発掘の後地下に埋めて保存しました。整備の礎石や雨落ちは遺構に倣って復元しました。

1/10模型
木材の加工前に、大工が各部の納まりを確認するため1/10の模型を作りました。

木材加工
近世城郭の城門に倣い、木材にはケヤキを多く用いました。この、とても硬い木に、大工は仕口や継手を精密に刻みます。

建て方
復元した礎石の上に、刻んだ木材を組み上げていきます。自然石の上に建つ柱の下面は、石の形に合わせてひかり付けています。

土壁塗り
壁には竹木舞を組み、荒壁を塗ります。この後、乾燥養生しつつ裏返し塗り、斑直し、貫伏せなど、壁土の状態を見ながら手間をかけ、最後に中塗り土で仕上げました。

屋根 割り板葺き
屋根はスギ赤身、厚4分、長さ4尺5寸の手割柾目の板を4枚重ねて、それを3段に葺きました。こけら葺きやとち葺きの経験豊富な職人も、この割り板の長さは初めてとのことでした。
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